2009年07月03日

日米修好通商条約により

1858年(安政5年)、日米修好通商条約により1863年1月1日(文久2年12月7日)に開港が定められたが朝廷の反対によりロンドン覚書によって5年後の1868年1月1日(慶応3年12月7日)、「兵庫津」より東にある「海軍操練所」があった辺りを事実上の「兵庫港」[2]として開港が実現した。

「神戸」は当時、開港場一帯の村の名前でしかなかったが、公文書には、開港直後の1868年(慶応4年、明治元年)には「神戸港」の名称がすでに現れている[3]。やがて外国人の手によって居留地ができ始め、西洋文化の入り口として発展して「神戸」の名が著名になっていった[4]。1872年(明治5年)、和田岬に和田岬灯台が設置されて1892年(明治25年)に勅令[5]により、旧生田川(現フラワーロード)河口から和田岬までの全体が「神戸港」となる。
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政府の富国強兵策による近代化で工業が貿易と共に興り、しだいに大阪と共に阪神工業地帯を形成していく。日清戦争後には香港・上海を凌ぐ東洋最大の港となって商社「鈴木商店」などに代表される海運業が隆盛、ロンドン・ニューヨーク・ハンブルクと並ぶ世界四大海運市場として世界に名を知られるようになっていった。

太平洋戦争の敗戦により、神戸港は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収される。1951年(昭和26年)、占領は解除となるが朝鮮戦争やベトナム戦争の影響から撤収は段階的なものとなり、最後まで米軍に接収されていた新港第6突堤が返還されたのは1974年(昭和49年)のことである。返還の翌年、神戸市議会の全会派一致により「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」を採択、寄港する外国軍の艦船に非核三原則に基づく「非核証明書」の提出を義務づけた。

2009年06月13日

酒の分類において、もっとも重要なのは特定名称

清酒の分類において、もっとも重要なのは特定名称である。原料や製法が一定の基準を満たす清酒は、純米酒(じゅんまいしゅ)、吟醸酒(ぎんじょうしゅ)、本醸造酒(ほんじょうぞうしゅ)といった特定名称酒(とくていめいしょうしゅ)に分類される。特定名称酒に該当しない清酒は、普通酒(ふつうしゅ)と呼ばれる。

ただし、平成16年(2004年)1月1日から精米歩合規定が撤廃されたため、下記に示す条件に合わない場合でも記載は可能となっているのが現状であるため、名称はあくまで目安に過ぎない。(詳しくは「純米酒」の項を参照。)

特定名称以外にも、特徴的な原料や製法によって様々な分類があるが、これらは国税庁の告示である清酒の製法品質表示基準により定められるものと、酒造メーカーや業界団体によって伝統的・慣用的に用いられるものとがある。
感染症
ケーブルテレビ
インフルエンザ
バイオリズム
戯曲
天体
喜劇
真菌学
日本画
宇宙ステーション
地層の作り
神社案内
未知の宇宙
脳と神経
日本の重要文化財
下町東京
広島の歴史
不動産用語
サンタはどこ
牛の生涯

前者においては、特定名称といくつかの記載事項・任意記載事項・記載禁止事項が定められている。後者においては、付加価値を高めるため前者において定義されていない多様な分類が見られるが、同意の分類でも地方や世代などによって異なる用語が用いられることがあり(中取り / 中汲み 等)、統一されていない。

特定名称の使用が定められる以前は、特級、一級、二級という級別制度が存在した(詳しくは日本酒の歴史を参照)。

なお、酒造メーカー独自のランク付けとして、特撰、上撰、佳撰などという呼称も一部で使われている。

普通酒 [編集]
特定名称酒以外の清酒。一般に流通している大部分の日本酒である。白米、米麹(こめこうじ)以外にも、醸造アルコール、糖類、酸味料、化学調味料、酒粕(さけかす)などの副原料を加えて作ることが、副原料の重量が米・米麹の重量を超えない範囲という条件つきで認められている。三倍増醸清酒、またはそれをブレンドした酒も普通酒に含まれる。

特定名称酒 [編集]
三等米以上の白米を用い、白米の重量に対する米麹の使用割合が15%以上の清酒。原料や精米歩合により本醸造酒(ほんじょうぞうしゅ)・純米酒(じゅんまいしゅ)・吟醸酒(ぎんじょうしゅ)に分類される。

本醸造酒 [編集]
精米歩合70%以下の白米、米麹および水と醸造アルコールで造った清酒で、香味及び色沢が良好なもの。使用する白米1トンにつき120リットル(重量比でおよそ1/10)以下のアルコール添加(アル添)をしてよいことになっている。そのままではアルコール度数が高いので水で割ってあることが多い(割水)。そのため、旨味や甘味にとぼしく、一般的に味は軽くなり、すっきりしたものとなる。

2009年06月09日

景忠の一族で養子の景直を祖とする家

景忠の一族で養子の景直を祖とする家。はじめ景直の子満景が山内上杉家の家宰となり、鎌倉に居住して勢力をもったが、上杉禅秀の乱で戦死してから家宰職を白井・総社長尾家に奪われて衰えた。

のちに鎌倉長尾家の一族長尾景人は山内上杉家の房顕に仕えて功を立て、下野国足利荘(栃木県足利市)を与えられて、関東管領と敵対する古河公方に対する抑えをなし、白井・総社長尾家と山内上杉家家宰職を交代で務めた。上杉憲政の関東退去後ははじめ上杉謙信、のちに北条氏政に従い、小田原の役で後北条氏と運命をともにした。

景忠の一族(弟とも)で、養子として景忠から越後守護代職を譲られた景恒(景廉とも)を祖とする家。景恒の子のとき、上田荘(新潟県南魚沼市)を本拠地とする上田長尾家、古志郡蔵王堂・栖吉(長岡市)を本拠とする古志長尾家(栖吉長尾家とも)、蒲原郡三条(三条市)を本拠とする三条長尾家の3家に分かれた。中でも三条長尾家が越後守護代職を世襲し、越後府中に居住したため、この家を府中(府内)長尾家とも呼ぶ。
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府中長尾家は初代長尾高景以来、代々越後守護上杉氏を補佐する立場にあったが、しばしば対立しついに1507年、長尾為景のときに上杉定実を擁立して謀反。守護上杉房能を廃して下克上を果たした。為景は房能の実兄である関東管領上杉顕定が越後に攻め寄せるとこれを戦死させたが、一族の上田長尾家を含む越後の国人たちと激しく対立した。為景は実妹を定実の継室にするなどして、何とかこれらの圧力をしのいだ。

為景の死後、あとを継いだ長尾晴景は病弱で越後国内の統御に失敗したため、弟の長尾景虎(のちの上杉謙信)が家臣に担ぎ出された。兄弟の伯父(実の伯母の夫)にあたる上杉定実の調停で、晴景が隠居して景虎が長尾家を継承した。越後の統一に成功した景虎は、1561年に山内上杉家の上杉憲政から上杉氏の名跡を譲られるが、府中長尾氏の名跡の後継者は立てなかったため府中長尾氏は断絶した。なお謙信以降の上杉氏を憲政以前の山内上杉家や越後守護家と区別するために「長尾上杉家」と呼ぶ場合もある。

為景の婚姻政策により、謙信の母は古志長尾家の出自で、姉は上田長尾家の政景の妻であった。上田長尾家は政景が1564年に事故死するが、その子顕景は謙信の養子になって上杉景勝と名を改め、謙信死後の家督争いに勝利して上杉氏を継承した。一方、古志長尾家の景信は謙信が上杉の名跡を継いだとき、ともに上杉に改姓して上杉十郎景信と名乗り、長尾上杉一門の重鎮となったが、謙信死後の家督争いで景勝と敵対したため滅ぼされた。(なお、景信が上杉に改姓した際に古志家の家督は謙信の側近の河田長親に譲られたが、彼は長尾姓に改姓することを辞退したという。)

2009年04月25日

北西ハンガリーでハンガリー人

1683年、ハプスブルク家領の北西ハンガリーでハンガリー人による反乱が起こり、反乱者たちはオスマン帝国に対して支援を要請した。これをスレイマン1世の第一次ウィーン包囲以来150年ぶりのオーストリア占領の好機と考えたカラ・ムスタファ・パシャは、15万からなる大軍を率いてハンガリーからオーストリアに侵入、ウィーンに迫った。
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皇帝レオポルト1世はウィーンを脱出してリンツに逃れ、イスラム教徒からヨーロッパを防衛するよう訴えてキリスト教徒の諸王侯に支援を要請した。これに、当時オスマン帝国とポドリアを巡って争っていたポーランド国王ヤン3世ソビエスキが応え、ヤン3世はポーランドとドイツ諸領邦からなる連合軍を率いて自らウィーンの救援に向かった。

1683年8月初頭、ウィーンに到達し、この町を完全に包囲したオスマン軍は、町の西部から城壁の突破をはかって攻撃を仕掛けた。しかし最新の築城法で要塞化されて第一次包囲の時代よりはるかに堅固になったウィーン市の防備を破ることができず、攻城戦は長期化した。遠方から進軍してきたため強力な攻城砲を搬入できなかったオスマン軍は、地下から坑道を掘って城壁を爆破する作戦もとったが失敗に終わった。

一方、防衛側のウィーン守備軍は士気が盛んでたびたび要塞から打って出てオスマン軍を攻撃したが、包囲軍に対してほとんど損害を与えることはできなかった。


9月12日、オーストリア・ポーランド・ドイツ諸侯の連合軍がウィーン郊外に到着、ウィーンとその周辺を見下ろすようにしてウィーン市西の丘陵上に展開した。連合軍は右翼にヤン3世率いるポーランド軍3万と、左翼にオーストリア軍およびドイツ諸侯の連合軍4万を配置し、オスマン軍と対峙した。

この日までにオスマン軍はウィーンの防衛線に突破口を開きつつあったが、ウィーン守備軍の必死の抵抗によりウィーンは辛うじて守られていた。オスマン軍は数の上でも依然としてウィーン守備軍と連合軍の合計を上回っていたが、長引く包囲戦により士気は低下しており、また装備も旧式で不十分であった。またクリミア・タタール軍などオスマン軍の一部は強権的なカラ・ムスタファ・パシャに反発しており、大宰相に対して非協力的ですらあった。

偵察を放ってオスマン軍の情報を探っていたヤン3世はこのような状況を掴んでオスマン軍の防備体制が弱体であることを見抜いた。連合軍による攻撃の開始は翌9月13日が予定されていたが、ヤン3世は到着した9月12日の夕刻に連合軍に総攻撃を命じた。偵察によってカラ・ムスタファ・パシャの本営の位置を正確に把握していた連合軍はオスマン軍に対する中央突破を敢行し、敵司令部を混乱に陥れた。わずか1時間ほど続いた戦闘によってオスマン軍は包囲陣を寸断され、散り散りになって潰走した。

夕暮れで暗くなったために追撃は早々に打ち切られたため、カラ・ムスタファ・パシャは無事に逃げ延びることができたが、戦闘はオスマン軍の惨憺たる敗北に終わった。

カラ・ムスタファ・パシャはベオグラードに逃れ、敗軍を建て直し連合軍に対する反撃を準備していた。しかし帝国の宮廷では、カラ・ムスタファ・パシャの強権的な執政に不満をもっていた政敵たちの策動が功を奏し、ベオグラードにはメフメト4世の名をもってカラ・ムスタファの処刑を命ずる勅令が届けられた。

連合軍の側ではローマ教皇がトルコ人に対する同盟結成の呼びかけを行い、オーストリア、ポーランドにヴェネツィア共和国を加えて神聖同盟が結成された。神聖同盟は引き続きオスマン帝国の支配下にあった東ヨーロッパの各地に侵攻した。

一方のオスマン帝国では、カラ・ムスタファの刑死後、政府内に指導者を欠き、混迷するオスマン軍は連合軍の前になすすべなく連敗を重ねた。帝国はオーストリアにハンガリー、トランシルヴァニアを、ポーランドにポドリアを、ヴェネツィアにモレア半島、アドリア海沿岸の諸都市を奪われ、さらに1686年にはロシア(モスクワ大公国)が神聖同盟に加わってクリミア、アゾフに侵攻を開始した。オスマン帝国の勢力は東方に大幅に押し戻され、一時はバルカン半島支配の要衝であるベオグラードまで失われることになる。1689年に再びキョプリュリュ家から登用された大宰相ファーズル・ムスタファ・パシャ率いる反攻によってオスマン帝国は戦況をある程度挽回するが、ファーズル・ムスタファは1691年に戦死し、大局を覆すに至らなかった。

戦争は長期化するにつれて神聖同盟間の不和が表面化して戦線を膠着化するが、結局16年間にわたって続いた。末期にはほとんど戦闘は行われない中で和平交渉が進められ、1699年にカルロヴィッツ条約が結ばれてようやく終結する。

カルロヴィッツ条約でオスマン帝国はベオグラード周辺を除くハンガリー王国の大部分(ハンガリー中央部、トランシルヴァニア、クロアチアなど)をオーストリアに、アドリア海沿岸の一部をヴェネツィアに、ポドリアをポーランドに割譲することを認めた。翌年にはロシアと個別の講和を結んでアゾフの割譲を認めている。

第二次ウィーン包囲の意義
第二次ウィーン包囲は、16世紀後半以来徐々にではあるが衰退していたオスマン帝国のヨーロッパにおける軍事的優位を決定的に崩す事件となった。第二次ウィーン包囲がオスマン帝国の衰退を決定付けたとみる評価がオスマン帝国史の叙述においては通説となっている。

また、第二次ウィーン包囲からカルロヴィッツ条約に至る16年間の戦争によってオスマン帝国の版図はバルカン半島および東ヨーロッパから大幅に後退し、オーストリアとロシアがこの方面における覇権を握るきっかけを作った。

精神的意義としては、100年前のレパントの海戦に続いて、ヨーロッパ諸国がオスマン帝国に対して抱いてきた脅威を打ち崩す戦闘であった。クロワッサンはこの戦争の勝利を記念してトルコ国旗の意匠である三日月を象ったものである、とか、あるいはヨーロッパでコーヒーが広まったのはウィーン市民が潰走したオスマン軍の陣営から打ち捨てられたコーヒー豆を見つけたのが始まりである、といった伝説的なエピソードは実際には事実に反しているが、この戦いがヨーロッパの人々のオスマン帝国に対する印象を変えた象徴であったことをよく示している。

また、バルカン諸国史の叙述においては、オスマン帝国のバルカン支配を抑圧であるとみなし、この包囲がその解放とのちの民族自立への第一歩となった事件という評価を下している。

2009年04月08日

桑江知子

桑江知子(くわえ ともこ 1960年1月18日 - )は、沖縄県コザ市(現・沖縄市)出身の歌手・DJ。

琉球民謡コンクールなどで注目をされていてスカウトされる。

1979年1月25日、SMSレコードから『私のハートはストップモーション』でデビューし、この曲がポーラ化粧品のCMで大ブレイク。
ニューミュージック風の曲作りなど、売り出しには渡辺プロダクションのプロフェッショナルな仕事があった。同年の各歌謡コンクール新人賞レースでは、竹内まりや(「SEPTEMBER」)とデッドヒートを繰り広げる。

渡辺プロダクションが、若者のニューミュージック指向を高めようと立ち上げたNON STOPプロジェクトの一員である(他のメンバーは、大塚博堂・太田裕美・山下久美子・ルイス・ララ)。

その後歌手としては『二つの愛』『黄昏をワインに染めて』などを発表するがデビュー曲ほどヒットせず、ロス・インディオスなどとのコラボも行うが低迷していた。その間、地方FMなどでのDJが好評だったため、歌手としての活動よりそちらの方が本業になる。

近年は沖縄音楽に主軸を置いた活動が主である。

一発屋としての評価があるが宇宙戦艦ヤマト挿入歌や番組テーマなども歌っている。

「私のハートはストップモーション」は今でも春先を中心に(歌詞の内容から)有線のリクエストは多い。確かに「私の・・・」以外に未だに有線等で流れる曲は無く、どうしても一発屋の印象は拭い去れないものの、その一方で「ブルーブルー・アイランド」「クリスタル・ハネムーン」「ジャマイカ・タウン」といったスマッシュヒットはある。「永遠(エテルナ)の朝」は三菱自動車エテルナのCM曲。

2005年に母校の福岡県立西福岡高等学校が総合学科に改組し福岡県立福岡講倫館高等学校に改称された際、同校の校歌の
作詞作曲を手がけた。

CDシングル [編集]
「私のハートはストップモーション」
「恋をゲームにしないで」
「黄昏をワインに染めて」
「通り過ぎた夏」(1999年12/16)

CDアルバム [編集]
「Born Free(野性に生まれて)」(LP:1979年6/01、CD;1995年7/21)
「MYこれ!クション 桑江知子 best」(2002年3/20、ポニーキャニオン)
1. 私のハートはストップモーション
2. たずねびと
3. ブルーブルーアイランド
4. めぐる想い
5. ヘイ・ミスター・ロンリー
6. クリスタル・ハネムーン
7. あいつの夢は一千光年
8. 恋人の領分
9. ランナウェイ
10. ジャマイカ・タウン
11. 永遠(エテルナ)の朝
12. Hello Mr.Spring?辛く愛して?
13. ハレーション・ドリーム
14. 20
15. Mr.Cool
16. ピリオド
「月詠み間」(2004年8/18)
「カジマヤー 風車」(2006年9/20)

フィルター ダミー ドライブイ とっこ クーガー ミズム ソリッド カカオ ゲルサンド ザ・サボイ ソケット ジュート デイオ シェークス 澪標恋 フォーラ フーディア 自由の幻想 スペアリブ オーバー スペイン ピーエル スポッタ サチュ レンツェ リベラル インダー かえる ロウバ パイロ メーン フォックス ブラック シロヤ ブロー パトロー フラダンス タイボ ドジェ ひらない ちょうらく ニワウメ テディ コールド マナイ ザック ローブロ デーション ソール フライ

2009年03月24日

名鉄モ510形電車

名鉄モ510形電車(めいてつモ510がたでんしゃ)は、名古屋鉄道がかつて保有していた路面電車車両の一形式である。

大正時代末期の1926年(大正15年)に美濃電気軌道によって新造され、80年近くに渡り一貫して岐阜市周辺で運用され続けた極めて長命な電車であったが、運用路線の全廃に伴い2005年(平成17年)に全車運用を離脱した。

1926年(大正15年)、美濃電気軌道(通称「美濃電」。後の名鉄美濃町線ほかを当時運営していた会社)が、セミボ510形として511?515の5両を日本車輌で製造し投入した。同社初の半鋼製ボディを採用したボギー電車である。形式の「セミボ」とは「セミスチール・ボギー」の略。路面区間での運用もあったが、高速電車規格のイコライザー台車を履いた高床構造であり、アメリカにおいて1900年代から1920年代に盛んだった「インターアーバン」と言われる市内・郊外直通の電車群と共通性のある電車である。

アメリカの電車の影響で大正時代を通じて日本の鉄道界で流行していた、正面を半円筒型の5枚窓とする半流線形ボディを持つ。このデザインは、先行して1923年(大正12年)に美濃電が増備していた、本形式と同じく日本車輌製の木造ボギー車BD505形506?510(後のモ520形)におおむね準拠したものである。2扉車だが、窓は位置が腰高な印象のBD505形より低く、また同形が1段窓であったのに対し2段窓となり、安定感のある外観となった。またドアの戸袋窓は当時の電車で時折見られた楕円形で、正面形状共々この電車のデザインのアクセントになっていた。製造当初の電装部品はイギリスのデッカー(イングリッシュ・エレクトリック社)系で、直接制御方式・44.8kWモーター2個という控えめな仕様であり、さほど速い電車ではなかった。

当初は、BD500形、BD505形と同様、鉄道線の笠松線(現・名鉄名古屋本線の新岐阜?笠松間)で運用されたが、美濃電が1930年に名岐鉄道に合併された後しばらくしてから、軌道線の美濃町線へ主な運用路線を移す。名岐鉄道が愛知電気鉄道との合併で名古屋鉄道となった後も美濃町線系統に留まって、戦後まで長らく運用された。集電装置は当初ポールであったが、戦後にビューゲル化されている。

なお、本形式は形式記号がセミボからモに変わった以外は同一番号であったが、BD505形は後にモ520形522?526に改番された。またモ520形は1964年から翌1965年にかけて車体に鋼板が貼られ、いわゆる「にせスチール車」となっている。

1967年(昭和42年)に岐阜市内線と揖斐線との直通運転が開始されるに当たり、車齢40年を超える古典車でありながら、木造車のモ520形とともに直通運転用の車両として抜擢されることになった。

この年と翌年の間に5両すべてがロングシートから転換クロスシートに改造、ドアステップはドア連動の自動折り畳みとされた。さらにこの運転にあたっては、揖斐線内での高速性能と付随車牽引力を確保するため、モ510形を4個モーター・間接制御仕様に改造することになり、他形式から流用した中古の東洋電機製造製TDK-516A形モーター4基とウエスチング・ハウス製のHL-480F形間接手動制御器(HL制御)を装備してギア比も61:23(2.65)と高速化、サイズの割には強力駿足な電車となった。これに合わせて集電装置もビューゲルから菱形パンタグラフ(PT52-J形)に変更、高速対応としている。一方モ520形は従来の直接制御器・2個モーターを残したまま、新たに本揖斐駅寄り運転台のみ間接非自動制御器用マスコンを増設し、単独走行可能ながらモ510形との併結時は制御付随車として使用できるようになった。

当初は揖斐線内では併結運転、岐阜市内線ではモ520形が単独で直通という形態が取られたが、のちには常時2両編成で市内線に直通するようになり、モ520形は実質専属のトレーラーとなった。揖斐線内における急行運転では、老骨にもかかわらず直通運転開始当初65km/h、モ770形の登場後は70km/hの最高速度で快走した。

名鉄は600V電化の支線区には旧型車のみを多く充てたため、以後も上記の状態での運転が長く続いた。繁華街の柳ヶ瀬界隈の狭い路上を古風な電車の2両編成が通り抜ける様は、岐阜の名物であった。

しかし冷房もなく、モ520形に至っては木造車の外側に鋼板を貼り付けただけの簡易鋼体化車で老朽化も著しかったことから、1987年(昭和62年)に新造車のモ770形が投入されると、まず1988年(昭和63年)までにモ510形のうちモ511・モ515の2両とモ520形全車が廃車となった。このため残存する512?514の3両で適宜編成を組んで運用する形になった。この1988年(昭和63年)、モ510形は鉄道友の会からエバーグリーン賞を受賞している。

その後1997年(平成9年)のモ780形投入により、モ510形の定期運用はなくなり、同車は予備車扱いになった。

2000年(平成12年)にモ512が廃車となって美濃町線の旧美濃駅(1999年廃止)へ静態保存のため移されたが、残ったモ513・モ514の2両は2005年(平成17年)の岐阜600V線区(岐阜市内線・揖斐線・美濃町線・田神線)全廃まで、他車両の検査に伴う代走や団体専用列車・臨時列車用として運用された。

その後、残った2両のモ510形は下記のように保存展示された。

モ513:2006年(平成18年)6月に金公園(岐阜市)で静態保存。
モ514:2006年(平成18年)3月19日に旧谷汲駅で静態保存。

逸話・エピソード [編集]
愛称は「丸窓」「丸窓電車」「赤白」など。名鉄社員は主に「赤白(アカシロ)」と呼んでいた。
2000年頃、「名鉄はまだこの電車を廃車にするつもりはないという」という記事が新聞に掲載されていた。
2001年に名鉄モ750形電車が引退した後は、名鉄600V線では唯一の非冷房車・ワンマン非対応車となった。また速度計・ミラーも無いため、乗務員の経験と勘で走らす電車であった。
車齢が77年に達した2004年、市ノ坪駅・岐阜工場構内で喜寿を祝うイベントが開催された。
晩年は、半世紀以上の時を刻んだ電車であることから、部品の確保が難しくなったにも関わらず、名古屋鉄道は当時の設計図を片手に自らの手で予備の部品を製作していた。
車内に検査記録を記した紙が貼られており、最初の検査日は1926年8月1日と書かれていた。
モ515号車は現在名古屋市南区にある「オールドスパゲティファクトリー」店内に展示されている。車内で食事をすることも可能。参考:[1]
また、埼玉県川越市の「オールドスパゲティファクトリー」店内にもモ522号車が展示されている。参考:[2]
揖斐川町が運行する「谷汲山参道らくらくバス」の車体はモ510形をモチーフとしたデザインである。(いすゞ・ジャーニーまたは日産・シビリアンをベースに岩戸工業がカスタマイズ

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2009年02月20日

黄金勇者ゴルドラン

小学校6年生のタクヤ・カズキ・ダイは、元気がよすぎるイタズラ好きのワンパク3人組。ある日3人は、不思議な宝石パワーストーンを手に入れた。その中には「勇者」と呼ばれるロボット・ドランが眠っており、同時にこの石が黄金郷・レジェンドラへ行くための鍵になるという。
大和撫子 きゃく サバンナ スキニー 情熱支援 ジャング ナリー ハンドカ ヒットパレ シリング ファンキー サーモス カペラ サラリー ニッケ フリフリ シュプネ ルサン レセプト パング テーション ジェロ スイス イライン おりあお パラシ バーゼル 夢街道 桜雨1押 ノート ワスレ どんしゅう プリン ジャスラック レア日本 永遠偉 白い街 パイロット ブイディ ストーブ チャウダ トカラ 管弦 アビブ スター スティック オモ モカ モンタナ ほうすう

しかし、パワーストーンを狙って、ワルザック共和帝国の第一王子・ワルターが襲い掛かってくる。

甦った黄金勇者ゴルドランとともに、世界中に散らばる8つのパワーストーンを探す、レジェンドラへの冒険が始まった!! 

いわゆる「高松勇者三部作」の最終作である本作品は、シリーズきっての異色作と呼ばれることが多い。その所以とも言えるのが、「全篇に亘るコメディ路線の導入」である。

実名・国名・地名などは全てパロディ化している他(例・アーサー(朝)王=ヨールー(夜)王)通常なら相容れない筈の敵味方によるボケの掛け合いや、むやみやたらに現われるラブコメ、勇者ロボが全員でボケツッコミをかます。更には何の盛り上がりも無く強化合体のゴッドシルバリオンが完成したり、『製作サイドの内輪ネタ』をセリフとして多用。終始徹しての『こんなこともあろうかと』などといったお約束のオンパレードやそして他作品・他局でも前例の無い『ロボットによるできちゃった結婚』など、今までの勇者シリーズのイメージから逸脱した要素が随所に散りばめられていることが、他の作品とは一線を画した内容となった要因であることは紛れも無い事実であろう。

この他、「主人公達の冒険や戦いが、地球・人類の危機や犯罪阻止とは無関係」「レギュラーのヒロイン的存在が主人公側ではなく敵側にいる」「主人公の少年が3人組」といったことも本作の特徴として挙げられる。

また本作品では、三部作共通のテーマである「勧善懲悪の否定」に一つの結論を出した。それは「善いもんも悪いもんも友達になりゃいいじゃん」という答えである。紆余曲折を経て、最終的に主人公達のサポートに回ることとなったワルター(のちのイーター)は正にそれを体現した存在であると言えよう。また、最終決戦においても、そうした要素を前面に押し出したストーリー作りがなされており、その為か勇者シリーズとしては極めて異例な「敵味方共にメインキャラで死者が出ていない」「(ある意味では)敵味方の勝負が完全に着いていない」作品となった。

なお、勇者シリーズ中唯一、オープニングテーマ曲の歌詞の中にタイトルロールである勇者ロボ(この場合はゴルドラン)の名前が入っていないというのも特徴である(曲そのものは作品世界や冒険を楽しむ少年達の心情を唄った歌詞)。

勇者ロボの特質的特徴
地球外生命体であるエクスカイザーとファイバード、地球の抗体であるダ・ガーン、地球人類が作り上げた機械であるマイトガインとジェイデッカー。

本作はこれを『全部混ぜた』設定を取り入れている。今作勇者であるレジェンドラの勇者達は、黄金銀河と呼ばれる宇宙の彼方(地球外)で、黄金郷の主によって作られた人工(機械)生命体である。その役割は担当する惑星で選ばれた人間と共にレジェンドラへの旅を行う事、そして黄金郷レジェンドラを悪しき者から守る(抗体)である。

特徴を参考にしてもらうが、彼らは機械と生命体が等しく混在したシリーズ唯一の勇者である。エネルギー生命体が機械に宿ったのではなく、人間によって作られた機械でもない、両者の狭間に位置しており、『文字通り人知を超えた存在』として描かれている。

その為か、命令された行動に対し機械のように根気よければ、生命体(人間)のようにボキャブラリーに溢れた物言いをしており、一貫して自分がロボットであるという自覚を持たず(主とは違う存在とは認識)、時には目的の為に手段を問わない・ブチ切れる・命令違反でどっかに消える、一部を実力ではなく運で乗り切るという、今までの勇者シリーズの長所をとことん組み込んでいる。これは勇者シリーズの原点・トランスフォーマー(機械生命体)と一部類似する。

また、ダ・ガーンから続く『機能停止』という描写については、前々作マイトガインの『時間がたてば復活するさ』という問題点を完全に克服した形である、『勇者は一回倒さないと仲間にならない』というルールを第一話から登場させている。これは特徴で書かれている通り、機械としての性質の現れを単純明快に表現し、ハラハラドキドキといった冒険ドラマ的ストーリーを持たせる事になっている。

生命体と機械が同等に調合した代は、後のテレビシリーズには存在せず[1]、ゲーム展開の9代目・勇者聖戦バーンガーンのヴァリオンまで登場しない。

他作品への影響
一説では本作品が、翌年のスーパー戦隊シリーズの『激走戦隊カーレンジャー』がコメディ路線を取り入れた作品になる重要なヒントになったと言われている。さらに、翌年の『勇者指令ダグオン』、特撮ではあるが『超光戦士シャンゼリオン』など他局や他社の作品の幾つかでも、コメディ的な要素がふんだんに取り入れられた作品が散見されるようになった。これら男児向けの作品でコメディ要素が強まった直接の要因とまでは行かないかも知れないが、この時期の作品群におけるコメディ路線の先駆けとなった存在である事は間違いない(詳しくはカーレンジャーの項参照)。

その背景として、1990年代前半の男児向けアニメ・特撮でのシリアス(現実)化が進んだ結果、この時期に行き詰り感が現れていたということ並びに、海外で急増した日本製(特にロボット)アニメのバッシングが挙げられる。本作はその方向転換期の口火を切った作品として、後続の作品群に一つのヒントを提示する存在となったと言えよう。

作品への評価
先述のコメディ路線や、一癖も二癖もあるキャラクターの存在など、賛否が大きく分かれる事の多い作品である。しかしこうした要素を盛り込みつつ、ロボット玩具の販促番組としての役割は十分に果たした点や、アニメを問わず後続の諸作品に影響を与えた点など、本作品が果たした役割はシリーズ中においても極めて大きいものと言えよう。ただし、勇者シリーズで視聴率が良かったのは本作までで、その上の年齢層を見込んで作られた『勇者指令ダグオン』、『勇者王ガオガイガー』では急激に落ち込んでしまうこととなる。

なお、本作は放送後の再放送や地方UHF局等での放送を殆どなされていなかった為に再放送やビデオ化を望む声は根強く、「たのみこむ」等でもビデオ化や再放送の嘆願が多発、これらの力は本作をそれ迄放送されていなかったUHFやCATV系の勇者シリーズ放送枠に少しずつ組み込まれて行く切っ掛けとなり、その結果遂には本作もDVD-BOX発売迄に至る。

登場人物
勇者の主
原島拓也 (声:南央美)
主人公の1人。通称「タクヤ」。一人称は「オイラ」でお調子者であり、涙を流す迫真の演技で大人を騙すという特技を持つ。元気や調子がいいところが取り柄だが、勉強はからっきし。TVゲームやプラモ作りが大好きな現代っ子。ドランからバッジ型の冒険アイテム「ゴルドシーバー」を託される。時々古いギャグを口にする。星座はいて座。
時村和樹 (声:森田千明)
主人公の1人。通称「カズキ」。3人の中では一番大人びており背が高く頭のよい少年。ドランから懐中電灯型の冒険アイテム「ゴルドライト」を託される。SF愛好家で、夢は自分の発明品を実用化すること。クリスに好意を寄せたり、ひそかに村田和美(エンディングテーマの歌手)のファンだったりするなど、美人でナイスバディな年上の女性が好み。普段は冷めた物言いをしているが、冒険に対する情熱は他の二人にも負けない。
須賀沼大 (声:岡野浩介)
主人公の1人。通称「ダイ」。ちょっと太めでスポーツが得意な少年。お化けや怖いものは苦手。ドランから望遠鏡型の冒険アイテム「ゴルドスコープ」を託される。動物好きで他の2人と比較すると良心的で普段は抑え役に回っている。しかし、芯の強い一面があり一旦主張し出した事は、他の二人が反対しても絶対に曲げない。
なお三人の名前の由来は、ハラハラ(原島)、ドキドキ(時村)、スカッと(須賀沼)から来ている。また彼を始め、3人組の親兄弟については作中では一切言及されることは無かった。

ワルザック共和帝国
ワルター・ワルザック/イーター・イーザック船長 (声:森川智之)
ワルザック共和帝国の第一王子。20歳。ワルザック共和帝国駐日大使でもある。パワーストーンを狙う悪者。自称、文武両道、容姿端麗の貴公子。実際にメカの操縦や生身での戦闘能力は本作最強クラスだが、頭脳面では小学生の主人公3人組と互角レベル。一度タクヤ達の前で中途半端に名乗りかけたため「悪太」という名前だと思われており、馬鹿にされている事にすら、気付いていない。好きな食べ物は、チョコレート、納豆、イチゴである。タクヤたちを「お子たち」と呼ぶ。爺やをはじめとする使用人たちの手で育ったので世間知らずだが、ドラン達のパワーストーンを入手するもタクヤ達とドラン達の絆を知って彼らに返す一面も見せた。
戦闘では元々卑怯な戦いを嫌う武人的性格で、主人公ら以外の一般人を巻き込むことは好まない。その一端は第13話で子供達を守るための行動に見ることができる。
悪役だった時期は毎回自らロボットに搭乗して出撃し、ゴルドランに斬られては「どっしぇ〜!!!」と悲鳴を上げ、脱出装置で逃げながら捨てゼリフを吐くのが恒例であった。初期は「一度ならず二度までも〜」「二度ならず三度までも?」と回数も数えていた。
弟のシリアスとの戦いで宇宙に吹き飛ばされてからは、海賊のような身なりでワルターよりも冷静さを持つ心優しき青年、イーター・イーザックを演じ、タクヤ達の味方となる。いつもどこからともなくキャプテンシャークに乗って現れては一行を救っていた。本人は全くの別人として振舞っていたが、シャランラ以外の人間は全員その正体に気づいていた。本人はばれていないと思い込んでいる。
実は強度の女性恐怖(アレルギー)症で、シャランラには触れる事すら出来ない。『勇者特急マイトガイン』のCDドラマ『嵐を呼ぶハネムーン』には亡霊として登場し、レジェンドラへの執着を見せていた。
カーネル・サングロス (声:茶風林)
ワルターの執事を勤める老紳士。60歳。村山富市がモデルになったキャラで、太いまゆ毛に目が隠れている。シリアスが実権を握った後も変わらずワルターに尽くし続けた忠実な人物。
名前の由来はカーネル・サンダースに、数量単位のグロス(1ダースの1ダース分に相当する単位)をかけたもの。
シリアス・ワルザック/シリアス・イーザック (声:定岡小百合)
ワルザック共和帝国の第二王子でワルターの弟。年齢は12歳でワルターとは歳の離れた兄弟。兄と違って幼少の頃から英才教育を受けてきたため天才的な頭脳を誇る。冷酷非情な性格で自分以外の全ての人間に心を許さず、忠実な愛犬レイザーとアンドロイドの兵士達しか側に置こうとしない。冷徹な敵としてタクヤ達の目の前に現れたが、斜めに構えている一方で意外と義理堅い律儀な一面があり受けた恩義は絶対に忘れないタイプ。本当は誰よりも愛に飢えており実は父に存在を認めて欲しかった為の行為で、父に利用されているだけと悟ってからはタクヤ達に協力する。
アイスクリームが好物。かなりの甘党で、レジェンドラ捜索の際はいつもアイスクリームを食べていた。
最終回にて、兄とお揃いの海賊衣装を身にまといイーザック姓も名乗り、人が変わったように居丈高に口上を述べている。
レイザー
シリアスの忠実な飼い犬。シリアスの船・シュバンシュタインが暴走した際にはシリアスを無理矢理救命ポッドに引きずりこんで主人を脱出させたが、レジェンドラ王に助けられており、最終回でシリアスの元へ返される。
トレジャー・ワルザック皇帝(声:笹岡繁蔵)
ワルザック共和帝国の皇帝にして、ワルターやシリアスの父。息子のワルターやシリアスを利用してレジェンドラの財宝を探させていた張本人。
シャランラ・シースルー (声:麻見順子)
ワルザック帝国の有名貴族シースルー家の令嬢にしてワルターの婚約者。テレビ放映時期の設定では外見同様の18〜19歳(明言されず)だが、最終回時点ではワルターと同じ20歳(勇者シリーズ資料集、超勇者伝承に記載)である(本作の作中時間は一年強なので放送中に人知れず誕生日を迎えていた為)。良く云えば天真爛漫、悪く云えば世間知らずな少女。とあるパーティ会場で一目出会ったその日から、ワルターに恋い焦がれ、勝手に婚約発表記者会見を開き、ワルターの態度も何のその、熱烈な恋のアプローチを繰り広げる。しかし、自分の恋のためには法を逸脱する行為も辞さない天衣無縫の性格の持ち主。「シャララララ…」が口癖。しかも運動神経や腕力も結構人間離れしている上、ウサギ型ロボット「ウサリンMkII」を駆ってゴルドランを一蹴する程の実力を見せる。ゲームブレイブサーガ2ではガオガイガーのゴルディオンハンマーをハンマーコネクト無しで振るうと言う荒業すらみせている。
最終回にて、ワルザック兄弟に便乗して海賊のようなコスチュームを見せた。この時点で既に彼女が大人の女性である事をうかがわせている。
「レディ(淑女)に年を聞くのは失礼」と云うエチケットを忠実に守り続けて、作中では年齢等プライベートはその手の問いに一切答えなかった。勿論、上記の台詞で一蹴である。従ってワルター達共和帝国人も彼女の年齢は把握していない。

登場人物・地球編
ミチル先生 (声:麻見順子)
拓也たち3人組のクラスの担任。理想主義者で子供思いだが、ちょっと思い込みが激しく少々ヌケている面がある。ダンスが得意だが、大の蜘蛛嫌いで蜘蛛を見ると潜在的な怪力を発揮する。

登場人物・宇宙編
ソドラ王(声:玄田哲章)
レジェンドラへの道筋にある、ソドラ星の王。本名はホラフキーノ・ニマイジータ。埴輪のような顔をしているが、人に化けることも出来る。
主人公ら一行が来たとき星の前にレジェンドラという文字を出したり、さらに町を豪華な都市に見せ掛けたりと手を尽くして巧妙な偽レジェンドラを作って彼らを騙し、彼らが星にとどまっている隙に勝手に代わりに旅に出ようとした。
ゴルドラン他一行のロボットをベースに戦闘能力を22%強化したニセモノ勇者ロボットを所有しており、冒険を阻止されるとこれらでゴルドランたちを圧倒的な強さで苦しめた。しかし、偽者が作成されていなかったキャプテンシャークによりゴルソドラン以外は全てあっさりと粉砕され、残されたゴルソドランも合体したグレートゴルドランにより粉砕された。
ニセモノ勇者ロボットは毎週テレビを見てから本物を分析して22%強化(ソドラ王本人談)されている。本物が持たない技を追加することで本物よりも能力を高めたようだが、キャプテンシャークは登場から日が経っていなかったため十分な分析が行われずニセモノも作成されていなかったようだ。
尚、「BRAVE SAGA」シリーズゴルドランルートでは、必ず勇者達のフェイクロボ(ソドラ勇者)を作って攻撃してくる。但しフェイク勇者ロボの中にはキャプテンシャークのみならずメイン勇者以外は含まれず、その代わりにゲームオリジナル勇者すらフェイク(ソドラロボ)を作ってくる(このルートではガオガイガーが出てこない為にガオガイガーのソドラフェイクは存在しない。その代わりにウサリンMk-IIがゴルディオン・ハンマーを振り翳して戦う)。ちなみに名前はエソスカイザー、ソイバード、ソ・ドーン、マイソガイン、ソーデッカー、ゴルソドラン、ソイヤーダグオン、バーンガーソ。ブレイブサーガ2ではソドラ王の妻・ソドラ女王が登場。
レディリカ・ド・レジェンドラ(声:冬馬由美)
レジェンドラの現王であり、この世界の創造者でもあり、タクヤたちと同じ冒険者であった。レジェンドラにたどり着いたタクヤたちに次代を託そうとする。なお、リカちゃん人形そっくりの外見をしており、名前もそれを匂わせる命名である。

2009年02月04日

中原氏(なかはらし)は日本の古代貴族の氏

中原氏(なかはらし)は日本の古代から近世までの貴族の氏。
トロラン マケド サイフォ 支援ハム ファー キール ジェット レーダー ロールオ デイゲ モール かでな ルーレット タラソテ アーク コート ユークリッ さがほのか ピュービッ チリメン マーク リスク シルク カーゴ 未来の地図 ほこた クローズ ナチズ リバイ スベタパ イヌホ 一所懸命 リズミカル ジンマオ 星空の ロマンチスト ヒメジョオ ケジャン フェースラ デコサ タート ニンフ パラフェニ 浮草の宿 プレイボ カミーン チボール かせい アイト ユキモチ

安寧天皇の第三皇子である磯城津彦命が源流と言われている。はじめは十市氏首であったが、971年に十市有象・以忠が中原宿禰姓に改め、974年に中原朝臣姓を賜ったことに始まった。中原氏は明法道、明経道を司る家系で、大外記、少外記を世襲職とする朝廷の官務家として長く続き、中世には、中原親能のように鎌倉幕府と関係を持つようになった。

安寧天皇(あんねいてんのう、綏靖天皇5年(紀元前577年)- 安寧天皇38年12月6日(紀元前510年1月17日))は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第3代の天皇(在位:綏靖天皇33年7月3日(紀元前549年8月31日) - 安寧天皇38年12月6日(紀元前510年1月17日))。磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)・師木津日子玉手見命(『古事記』)。いわゆる欠史八代の1人で、実在しない天皇と捉える見方が一般的である。(実在説もある)

父は綏靖天皇、母は事代主神の女・五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)(『古事記』は河俣毘売)

皇后:渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと。鴨王の女、あるいは天日方奇日方命の女か。『古事記』では河俣毘売の兄である師木県主波延の娘 阿久斗比売)
息石耳命(おきそみみのみこと、常津彦某兄?)
大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと、懿徳天皇)
磯城津彦命(しきつひこのみこと)

皇居
片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)。『古事記』にも「片塩浮穴宮」。所在地については、以下の3説がある。

奈良県橿原市四条町付近 (『帝王編年記』『和州旧跡幽考』)
奈良県大和高田市三倉堂・片塩町 (『大和志』『古都略紀図』)
大阪府柏原市内 (『古事記伝』『大日本地名辞書』)
前後の諸宮が全て奈良盆地の中に位置しているので、候補としては第1・2説が有力とみられるが、その詳細は不明である。
なお、大和高田市に存する「片塩」「浮孔」の町名・施設名(例:浮孔駅)は全て、第2説に基づいた近代以降の復古地名に過ぎない。

事績
特に記録されていない。綏靖天皇25年正月(紀元前557年)に立太子、同33年(紀元前549年)父天皇の崩御を受けて、7月に即位。在位38年で崩御。『日本書紀』に57歳(67歳?)、『古事記』に49歳という。

御陵(所在地)
畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほとのいのえのみささぎ)に葬られた。『古事記』に「畝火山の美富登(みほと)」。現在、同陵は奈良県橿原市吉田町に所在する俗称「アネイ山」(山形墳)に比定される。元禄修陵では所在を誤ったが、幕末修陵に際して現陵に治定。陵号の由来になったとされる古井戸の「御陰井」が陵南の集落中にあり、陵と共に宮内庁によって管理されている。

明法道(みょうぼうどう)とは、古代日本の律令制の元で設置された大学寮において、律令法(法学)を講義した学科。

大宝律令において律令の解釈に関する官職や専門家を育成する仕組は存在せず、当初の大学寮においては本科にあたる後の明経道と数学の学科である算道の2つで構成されたと考えられている。律令の解釈は主に渡来人系の人々からなる令師と呼ばれる一種の技術職によって行われ、その育成も令師が私的に行っていたと考えられている。これは、律令の母国である中国において、儒教(=明経道)のみを君子の学問として、法学を含めたその他の学術を方技として扱って学問としての価値を認めない風潮があったことに日本の律令法も影響を受けたためと考えられている。

その後、律令の専門家を育成する必要性から、神亀5年7月21日(728年8月30日)の格において、漢文学・歴史学を掌る文章博士と同時に律学博士が設置された。2年後の天平2年3月27日(730年4月18日)に明法生10名が設置されて学科として確立した。この時の格に文章生と明法生は雑任・白丁の子弟から採ることが規定され、中央・地方の下級官人あるいは庶民の子弟が明法生となり、貴族子弟を学生とした明経道よりは格下と看做されていた。なお、明法生設置から程なく(時期は不明)、律学博士は明法博士と改称された。

明法道は律令そのものを教科書[1]とし、律から7問・令から3問出題され、8問以上で合格とされた。全問正解者(甲第)は大初位上に、8・9問正解者(乙第)は大初位下に叙任された。明法道の試験は難関であったために弘仁4年(813年)には、6問以上正解者には不合格であっても国博士に任命される資格を得ることが認められた。ただし、講義の詳細な内容は明らかではなく、律令を補完する格式・官符などについての学習が行われたのかどうかも明らかにはなっていない。

平安時代に入ると、桓武天皇による律令制再建政策の中で延暦18年(799年)には大宰府にも明法博士が設置され、同21年(802年)には当時30名の定員があった算生の定員を10名削って、明法生を10名から20名に増やす措置が採られている。また、平安京遷都後に明法生の講義と宿舎の場として中央の堂(校舎)と東西に分かれた直曹(寄宿舎)からなる明法道院(みょうほうどういん)が大学寮の一番南側に建設された。こうした施設は平城京などにもあったと考えられているが、平安京の明法道院は本科である明経道院と同規模であったと伝えられ(『大内裏図考証』)、当時の明法道の地位の向上を伝えている。

9世紀前半には律令の研究が興隆した時期であり、讃岐永直・興原敏久・額田今足・惟宗直本など多くの優れた明法家が輩出され、讃岐氏(後に和気氏)・惟宗氏(後に令宗氏)のように数代にわたって明法博士を輩出した一族もあった。この時代の明法家の著作は残っていないものの、『令義解』・『令集解』などにその学説(その学説によって「讃記」・「穴記」などと呼ばれている)が引用され、今日まで伝えられている。

だが、平安時代中期に入ると、文章生の学科である紀伝道が他の学科を圧倒するようになり、明法道は紀伝道・明法道よりも下位に置かれるようになって一時的に衰退の時期を迎えるようになる。もっとも、律令制が衰微したこの時代においても最低限の社会秩序の維持は模索されたことから、治安・司法分野においては法律の専門家である明法家に対する需要は存在し続け、以後も明法道から刑部省や弾正台、検非違使などの官人が送り込まれることとなった[2]。更に、道挙や道年挙によって在学生の下級官吏への登用も行われるようになった。また、10世紀に入ると次第に刑部省の地位が低下するようになり、強窃二盗(強盗・窃盗)と私鋳銭に関する裁判権は検非違使に、その他の犯罪に関する裁判権は太政官に移されることになった。特に太政官においては五位以上の官人から犯罪者が出た場合にこれを処分する「罪名定」と呼ばれる陣定が行われ、その際に決して律令に精通しているとは言い難い天皇もしくは摂関以下の公卿から当該事件に適用すべき罪名(犯罪の名称とそれに対応する刑罰)に関する諮問が明法博士ら明法家に対して行われ、これに対して明法家は明法勘文の提示を行った[3]。その一方で、摂関政治や検非違使、名田制など現行の律令制度から乖離した政治システムが形成されながら、新規の法体系を形成するだけの政治力を喪失しつつあったこの時代において、明法家がそれを律令的に合法に導く法的解釈を行う事も期待されていた。惟宗允亮が『政事要略』を編纂した(長保4年(1002年)頃)のは、そうした時期であった。

院政期において、土地領有や売買貸借を巡る訴訟の増加や治安の悪化への対策としての取締強化によって再び明法道が興隆するようになる。明法博士は従来の天皇や太政官に加えて治天の君や院庁の諮問に対しても明法勘文を提示するなど、活発な活動を見せるようになる。だが、その一方で坂上氏・中原氏[4]による家学化が進んで明法博士の世襲が行われるようになり、中には後世の学者から見ても法解釈の誤りが明らかである拙劣な勘文を残す明法博士が現れるなどの問題もあった。その一方で、坂上明兼の『法曹至要抄』、坂上明基(明兼の孫)の『裁判至要抄』、中原章澄の『明法条々勘録』、中原章任の『金玉掌中抄』などの優れた明法家の書物も現れた。平安時代末期に大学寮が廃絶すると、学科としての明法道の実質は消滅して、博士が私塾を開いて律令を講義するようになる。その一方で、いわゆる公家法が形成されるようになると、明法家の法解釈や明法勘文が法源とされ、明法博士などの明法家が院評定に参加するようになる。また、当初中原氏の養子に入り明法道を学んだ大江広元が鎌倉幕府創設に深く関与[5]し、また『裁判至要抄』の『御成敗式目』への影響が指摘されるなど、明法道と武家法の成立にも少なからず関係があったとされている。だが、南北朝時代を経て、室町幕府が京都を支配して朝廷・院庁の政治機能を吸収するようになると、形骸化していくようになり、有職故実の学問として命脈を保つに過ぎなくなった。

2009年01月21日

チョークはタップと手球の摩擦係数を増加

チョーク
チョークはタップと手球の摩擦係数を増加させるために使用される道具のことである。チョークをタップへ塗り付けないとタップが手球表面を滑りやすくなり、ショットミス(キューミスという)を起こしやすくなる。

一般にチョークの主成分は筆記用のチョークと同じ炭酸カルシウムであり、1辺2 - 3cm程度の立方体に固められた状態で販売されている。ビリヤードで使用するチョークには研磨剤も配合されており、これがタップの表面に食い込むような形で付着するようになっている。この研磨剤によりタップは少しずつではあるが摩耗していく。 (筆記用のチョークには研磨剤が配合されていないため、ビリヤード用のチョークの代用品として使用してもタップにはあまり付着しない)

チョークを使用する際、指へチョークが付着しないように使用面を除いた5面が包装されており、使用面にはわずかに窪みがつけられているものが多い。青や緑、赤、ベージュなどに着色されているものが販売されているが、ラシャに付着してもあまり目立たない色を選んで使うことが推奨される。

その他
グローブ - ブリッジを作る側の手に装着する手袋で、親指、人差し指、中指のみを包む。手汗をよくかく人がキューの滑りをよくするために使用する。
パウダー - 同じく手汗の多い人がキューのすべりをよくするために用いる。
メカニカル・ブリッジ - 手球が遠い位置にあり、ブリッジを組むにも手が届かない場合に使用する。
エクステンション - 一時的にキューの長さを伸張することができる。
ラック - ポケット競技においてカラーボールを定位置に並べる時に使う。

ビリヤードのプレイ
ビリヤードのゲームのほとんどは二人(それ以上のこともある)で行い、一方のプレイヤーがミスショットをするによってプレイヤーが交代する。言い換えると相手が失敗しない限り自分がプレイすることはできないし、自分が失敗しない限り主導権を握り続けることができる。それは即ちビリヤードとはいかにミスショットをしないゲームかということを表すともいえる(ここでいうミスショットとは、ファウルのほかに得点とならないショットを含む)。ナインボールで例えるならば、バンキングによって先攻を得た後、1番から9番までノーミスで突き切り、それを定められたセット数繰り返すことが一番確実な勝利方法といえる。

ミスショットをしないためには常に正確な狙い(エイミング)、ショットを毎回行う必要があるが、非常に強いプレッシャーのかかる場面においては普段どおりのショットができないことも多い。どのような局面であっても一定の精神状態を保ち続けることが安定したショットをする上で重要となることから、ビリヤードはメンタル・スポーツであるとされている。

またあるショットによって得点を上げたとしても、その次のショットを行うに当たってどの位置に手球を持っていくと自分にとって有利になるのかを考えておく必要があり、これをポジショニング・プレーと言う。 ポケット競技では的球をポケットし、手球を次の的球を狙いやすい位置に持っていくことを「ネキストを出す」と表現する。ネキストとは「next」(ネクスト)がなまったものと考えられており、「ネキ」と省略することも多い。ポジショニング・プレイを「ネキ出し」と言う事もある。(ポケットすることを「入れ」、ポジショニングプレーを「出し」と言うこともある) キャロム競技ではポケット競技と異なり、テーブルの上から的球が消えることはないため手球の止まる位置だけではなく、的球が止まる位置や、それぞれの球が走るコースなども考慮しなければならず、より高度なポジショニング・プレーが求められる。3つ球、4つ球競技において極力球の位置を動かさずに連続して得点を上げるセリー突きもポジショニング・プレーの一つといえる。

マナー
各ゲーム共通のマナーとして以下のようなものがあげられる。

くわえタバコでプレイしない。
テーブルに飲食物を置かない。
上記2点についてはビリヤードのラシャを参照。
空いているテーブルにもたれない。
プレイヤーの意識を引くような言動をしない。
大声で騒いだりしないことも当然であるが、他のプレイヤーの正面あたりに入り込まないように心がける、やむを得ず入ってしまった場合はむやみに動いたりしないことが推奨される。
道具を乱暴に扱わない。
カラーボールをキューで突かない。

体格差について
ビリヤードは非常に大きなテーブルを使用するため、どうしても手の届かないところに手球が行くことがある。身長の高い人間・手足の長い人間は小柄な人間・手足の短い人間よりもそういう場合は普段と同じフォームでプレイできる範囲が大きくなるため、若干有利になるといえる。また威力のあるブレイクや強い回転をかけるショットを求める場合は、ある程度の筋力と体重があったほうがのぞましいとされる。

しかしどれほど大柄な人間であっても手球と的球の位置によってはレスト(メカニカル・ブリッジ)を使わざるを得ない状況になるため[10]、大柄な人間が小柄な人間より圧倒的に有利であるとは言い切れない。また車椅子を使用するプレイヤーもいることから、プレイヤー自身の努力によって肉体の体格差をかなりのところまで跳ね返すことができると考えられる(これはプロのビリヤード選手をみても、体格などに統一性が見られないことからも推測できる)。

ビリヤードにおいては体格差よりも、正確なショット、プレッシャーに負けない精神力の方が重要といえる。

この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
キャロム・ビリヤード(俗にキャロム)はビリヤード競技のひとつ。手球を撞きワンショットで手球を2つ以上の異なる的球に当てるキャロム・ショット(英:キャノン・ショット)を行うことを競技の目的としている。キャロム・ショットが成立した場合は得点となり、競技者は続けて撞く事ができる。

キャロム・ゲームは白球2つと赤球1つ(競技によっては2つ)を用い、2人で行うものが多い。白球は競技者がそれぞれの球を自分の手球として保持し、他方の手球を的球として用いることができる。競技者が撞くことのできる手球はゲーム終了まで変更できない(ショット毎にどちらの白球でも自由に選んで撞いて良い「エニーエニー」と呼ばれるルールも存在する)。ふたつの手球は同色・同型であり、区別がつかなくなる場合もあるため、将棋における玉将のように一方の白球に小さな黒丸或いは黒い点を2つ付けた「黒球」(俗称)を用いていたが、日本ビリヤード協会が制定した統一ルールでは、一方の手球は黄色く着色されたものを利用するように明記された[11]。
リクエ ロジック ヒエラル ピーピーエ ラチェット カクシダ インタレ おおは ビジョ ラック プラム 菜の花 さとうき ビルボ ジュース ドウダ ぐぁば ラディ ロープ キャデ ブラッ かかお シューズ 総合ツタ ドクトル かじか オガタ ハルニレ シンプレ スカート あくふ スペルマ ロット モレーン キャッ スプリン たいめし支 テンソ モー シニフィ オウツ ファーザー ヒドラ レッドス ばらいろ ルビ ガーナイト コペン ワエロ フィス

キャロム・ショットが成立するまでに必要な条件を設ける事で競技にはバリエーションがあり、それぞれの競技ごとに難易度が異なっている。四つ球、ボークライン(カードル)、スリークッションが公式競技としては有名。またバンドゲーム(ワンクッション)もJPBFなどで公式試合が行われているが、日本ではスリークッションほどは普及していない。

キャロム・ビリヤードを行うテーブルはキャロム・テーブルと呼ばれ、球を落とすためのポケットはなく、四方が完全にクッションで囲われている。また、テーブルのサイズから中台(9フィートサイズ)、大台(10フィートサイズ)と呼ばれる。中台では主に四つ球、三つ球が競技され、大台では主にスリークッションが競技されている。

大台にはヒーターが内蔵されており常時保温されている。これはラシャを湿気から守りコンディションを一定に保つためである。ラシャは湿気が少なく乾燥しているほどボールが転がる距離が長くなるため、スリークッションなどで用いる重量のある手球を安定して長い距離走らせる必要が多い競技では外気に影響されないよう、ヒーターによる温度コントロールが必要となる。

2009年01月14日

魔法のスターマジカルエミ

魔法のスターマジカルエミ(まほうのスターマジカルエミ)は、日本テレビ(NNN・NNS)系列で1985年6月7日から1986年2月28日まで全38話が放送されたテレビアニメ。

『魔法の天使クリィミーマミ』、『魔法の妖精ペルシャ』に続く、スタジオぴえろ(ぴえろ)制作による「ぴえろ魔法少女シリーズ」の第3弾。安濃高志監督の代表作の一つであり、その演出スタイルが確立した作品でもある。

マジシャン志望の不器用な女の子・香月舞が、鏡の妖精トポと出会い、魔法で天才マジシャン「マジカルエミ」に変身し、華麗で大胆なマジックと歌でアイドルとして活躍する、というストーリー。

本作品は完全なオリジナル企画であり、原作は存在しない。基本的な構成は『マミ』の路線に立ち返り、主役の声優も新人歌手が起用されたが、『ペルシャ』の後半から重視されるようになった主人公の内面や周囲の人々の心象風景を、より深く描き出す事になった。

そのため、いわゆる「アニメ的な記号」が極力排除されたのが、本作品の最大の特徴である。つまり主人公たちと対立する敵やライバルは存在せず、キャラクターの表情や動きをわざと崩したり、心情や状況をセリフで垂れ流す事もほとんどなかった。淡々とした日常の積み重ねによって各キャラクターの成長を描き出し、特に、主人公の舞が魔法を捨てて精神的に自立してゆく過程を描いた、最終3話(第36話?)の完成度は極めて高い。

深い心情表現とていねいで繊細な日常描写で高い評価を得る、安濃監督の演出スタイルは本作と終了後に制作されたOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)『蝉時雨』で確立され、各話演出として参加した望月智充にも強い影響を与えた。

ぴえろの「魔法少女シリーズ」は、内容的には本作で完成の域に達した。しかしながら、明確な対立軸もアニメ的な記号も用いないスタイルは、通好みではあったものの、魔法少女アニメとして派手さに欠けた印象はぬぐえず、結果的に38話で終了する事になった。また、日常を掘り下げて描けば描くほど、非日常的な存在である魔法の意味は失われ、本作では主人公が魔法と決別して自立してゆく結論を導くに至った。加えてこの演出スタイルが当時としては斬新かつ叙情的であった事から、熱狂的なアニメ・ファンの一部はこれ以外の作風を受け容れられなくなっていき、これらの事柄は、シリーズが行き詰まってゆく一因にもなっていった。

ストーリー
香月舞は小学5年生で11歳のマジシャンを夢見る女の子。祖父が主宰するマジック劇団「マジカラット」の手伝いをしているが、なかなかマジシャンとはいかない感じ。こてまり台に引っ越してきた最中、偶然舞は鏡の妖精・トポと出会い、「願いの叶う魔法」をもらった。そして、魔法のブレスレットで天才マジシャン「マジカルエミ」に変身する。魔法で魅せるマジックで観客を魅了し、ステージは大成功する。そして、偶々このステージを見ていたテレビ局のプロデューサーにエミはテレビに出演させられる事に。そのままアイドルデビューさせられてしまう。こうして、普通の小学生とアイドル「マジカルエミ」という忙しい生活が始まる。

注意:以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。

今作における魔法
トポの説明では願いがかなう魔法とされ、舞は自分の理想像である天才マジシャンに変身する事を望んだ。呪文の頭を唱えるとブレスレットからハートブルームと呼ばれるバトンが現れ、それを振り回しながら呪文を唱える事でマジカルエミに変身する。

変身後も舞の意識はそのままであり、性格や口調もあまり変わらない。またマジカルエミはあくまでも舞の理想像であって、成長した将来の姿を示すものではない(『蝉時雨』の冒頭でその事が示される)。

変身後はあらゆる効果の魔法を呪文や小道具なしで使う事ができた。マジックの体裁を取っていたため、人前で自由に使う事ができた点が最大の特徴である。

魔法を使う事に対する制約は特になく、変身する姿を他人に見られた場合のペナルティも語られていない。『マミ』や『ペルシャ』にあったような、変身を見られた事によるトラブルもなかった(番組開始前の設定では、弟が変身を目撃するとされていたが[要出典]、結局そのような話は作られなかった)。しかし、舞が家族に秘密を明かしそうになったり、将に変身を見られそうになった時、トポ(及びピラミー)が邪魔をした経緯がある。

万能かつ非常に強力な魔法であったが、ゆえに舞は魔法に頼る事に疑問を抱くようになり、最終的にはそれを捨て去って自分の力で一流のマジシャンになる道を選んだ。

スタッフ
制作:布川ゆうじ(スタジオぴえろ)
プロデューサー:堀越徹(日本テレビ)、大野実(読売広告社)
シリーズ構成:小西川博、渡辺麻実
音楽:奥慶一
アシスタントプロデューサー:深草礼子(スタジオぴえろ)
美術監督:三浦智
音響監督:藤山房延
撮影監督:杉村重郎(ぎゃろっぷ)、森口洋輔(スタジオウッド)
キャラクターデザイン:岸義之、本山浩司
監督:安濃高志
オープニングアニメーション:もとやまゆうじ
エンディングアニメーション:古瀬登
シリーズディレクター:古川順康
動画チェック:本山浩司、穂刈俊聡、久高司郎
動画チェック補佐:久高司郎
動画:スタジオルック、スタジオマルス
背景:デザインオフィス・メカマン
美術設定:佐藤正浩
色指定:石黒ちえこ、西山美智子、西山規子
特殊効果:池田健司
仕上:矢原敦司、滝口佳子、松野竜二
仕上協力:森広智子、ひとみプロ、京都アニメスタジオ、大阪アニメワールド
マジック指導:杉本健
広報:山口普(日本テレビ)
タイトルデザイン:杉澤英樹
企画協力:根本道博
撮影:スタジオぎゃろっぷ→スタジオウッド
編集:坂本雅紀
録音制作:ザックプロモーション
効果:佐々木純一(アニメサウンドプロダクション)
調整:松沢清、久保田隆
録音:新坂録音
ラボ:東京現像所
制作デスク:萩野賢→吉本聡
文芸/設定進行:青木佐恵子
制作進行:朴谷直治、静谷伊佐夫、平出雅幸、原田学、佐々木和宏、渡部聖、須崎太郎
製作/著作:スタジオぴえろ

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